3.11を振り返る

3.11東日本大震災から8年が経過した。あの頃、中学生だった僕はなんやかんや成人している。あの当時について僕が思い出せることを書いていこうと思う。

当時の山形市の状況

3.11東日本大震災が起きた当時僕は中学1年生だった。地震が起きた時は山形市にある僕の中学の体育館で卒業式練習とかで歌か何かを歌っていたと記憶している。突然今までと比較できないほど大きな揺れが起こり、先生の指示だったと思うけどみんなその場でしゃがんだ。体育館の天井からバレーボールが落ちてきたことをよく覚えている。まあそんなことはどうでもいい。その後のちょっとの間の記憶が曖昧だが、揺れが収まった後は集団下校した。誰と一緒だったか何を話していたのか話していなかったのか記憶が全くないが、いつもの通学路の信号機が機能を失い交通の旗を持ったおじさんが交通整理をしていたのははっきり覚えている。何をどうしたらそんなに迅速に対応できたのか今思えば不思議である。そのおかげか、記憶にある限りは-僕が通った道に限りの話だが-目立った交通障害は起こっていなさそうだった。 そこからまた記憶がないのだが、 家に着きおそらく母、妹たちと合流したのだと思う。幸いにも母と妹は無事だった。しかし、父の安否は分からなかった。父はその当時、隣県の宮城県仙台市で働いていた。僕の家では地震の影響により電話は通じなかった。また電気も付かなかった。当然父からの連絡もなかった。そんなわけで、当然テレビは付かないし、うちはオール電化だったのでキッチンで料理すらできなかった。オール電化の弱点を認識した。しかし水道は使えたためトイレと水は確保できた。インフラがそんなわけだったので、外部の情報はラジオによってのみ知ることができた。インフラの状態については、同じ山形市でも地区によって異なっていたことを後に知った。また、2011年当時はスマホはなくいわゆるガラケーだったと記憶している。まだTwitterもLINEもしていないような時だった。確か、LINEは震災後にリリースされたんだっけ。不幸中の幸いで、ほとんど雪は降っていなかった。これが冬の真っただ中だったらもっと大変だっただろうと思う。幸いなことに我が家は床暖房が入っていたため、他の家と比べて比較的暖かかったようだ。寒い思いをした記憶はない。震災から数日後、料理は外で炭火をおこしてBBQをしていた。BBQをしている時も依然として父の安否は分からなかったが、不思議と心配の気持ちよりもこの非日常を楽しんでいたように思う。なんとなく無事な気がしていたのであまり心配していなかったのだ。当時の宮城県の情報をあまり知らなかったのも、心配していなかった理由の1つかもしれない。幸いにも、父は数日後には帰ってきた。なんと自転車で帰ってきたのだ。最後にものをいうのは体力であると実感した。父の話では、父の車は津波に流され、使えなくなってしまったので、チャリで来たらしい。父から、津波の動画を見せてもらったがあっという間に波が車を押し流す様子は全く現実感がなく信じられなかった。

当時思っていたこと

ここからは、中学1年生当時の僕の思っていたことを綴っていこうと思う。あの当時、父が被災していたことは明らかだった。しかし書いたようにほとんど心配していなかった。僕の心配ごとは次の週に週刊少年ジャンプは読めるのかといったことだった。-その当時はハンターハンターが連載されていて確かキメラアント編だったと思う-ものすごく毎週月曜日を楽しみにしていたのだ。どれくらい楽しみにしていたかと言うと、朝4時台に起きて、トラックでジャンプが運ばれてきたと同時くらいにジャンプを買っていたくらいだった。その当時の僕にとってはそれがどれだけ重要だったか。今思えば不謹慎極まりない。これからどのくらいでインフラが復活するのか、食事は大丈夫なのか、父は無事なのかなど心配すべきことは山ほどあった。しかし、そんなこと当時の僕にとっては知ったこっちゃない。そんな心配は大人の仕事だ。当時僕の思ったことは、携帯の充電はこまめにしていた方がいいなあとか、そんなことだったと思う。そんなに多くのことを心配できるほど、物事を知っていなかったし、当時の僕の世界なんてせいぜい家の周りと学校とサッカーで訪れるグラウンドくらいだった。そんな僕にラジオから流れる、隣県の津波のことだったり地震の被害だったりを想像できるだろうか。ましてや福島第一原発のことなどわかるはずもない。せいぜい、あーなんか大変なんだなあくらいである。

現実感の違い

どうしてこんなことを覚えているかというと作文で書いた苦い記憶として残っているからである。震災からしばらくたちある程度落ち着いたころ、全校集会でみんなの前で発表する役目に任命されてしまったのだ。僕は大勢の人の前で発表するのは苦手であり、絶対にやりたくなかった。他の人の中学校がどのようなものかは知るよしもないが、僕のところでは全校集会で3人くらいの生徒が全校生徒の前で頑張ったことだとか、目標だとかを発表するようなものがあったのだ。「僕が頑張ったことは3つあります。一つ目は云々かんぬん」みたいなやつである。僕もそういうテンプレにぶち込んでなにか書かされるのかなあとか思っていたら先生は自由に書けとおっしゃる。しかも僕に与えられたテーマは、震災を経験して感じた事とかそんな感じのことだった。作文がもともと苦手で何を書けばいいか、全くわからなかったが、このブログで書いたようなことを書いた。ジャンプは来るのかなあとかそんなことである。まあ素直極まりない気持ちではあったが、それが全校生徒の前で発表するに値するものなのかどうかは自信がなかった。というか、まずいとすら思った。’普通’こういう作文を書くときは本人が思っているのかに関わらず、震災にあった被災者に対して何か言及したりするものであるが、僕にはそんなことを書いた記憶は全くない。(実際に書いていたのかもしれないが。)はっきりいってその当時もリアリティがなかったのだ。隣の県に住んで実際に停電なども経験したのにも関わらずだ。隣県の僕ですらそんな程度のリアリティだったのに、もっと遠くの例えば東京だとか大阪だとかの人がリアリティを持って心配などできるわけがないと思っていた。そんな心配をするより今夜の晩御飯はなんだろうだとかそんなことの方がより考えていたに違いない。震災からしばらくたち、被災地の宮城や岩手の沿岸部に多くの芸能人が訪れた。それを知ったファンの子たちがTwitterなどで羨ましいとかなんとか言っていたのは確かに思慮分別に欠けていたと思うが、まあそれも一つのリアリティだと思う。どうして何百キロも離れた実際に自分が見たこともない土地の被害の状況を自分のリアリティとして認識できるだろうか。